消防と走馬灯

蓮沼昌宏の制作は、テーマや主たるモチーフなどであるより、場や状況から始まります。「転がるボールを出現させる」という作家の言葉は、なんらかの意図を持ってボールを転がすのでなく、床が傾いていたり、はたまた通りがかりの人が蹴飛ばしたりなど、なりゆきから次々に事ごとが生まれゆく次第を示唆するものです。作家はそこに観測者として身を委ね、事の次第に一喜一憂し、何かを拾いあげ、また手放し、失敗もしながら想念やイメージの数々を編み上げていきます。本展では、そのような蓮沼の制作姿勢をよく伝える絵画や手回し幻灯機によるアニメーションなどの旧作、ドローイングなどの資料のほか、壁画など現地制作による作品を展観します。

「走馬灯」は、近年、蓮沼が日々考え続けている対象です。ほのかな灯り。揺らぎ駆け巡るイメージ。沈潜した記憶。旧消防署という場、それをとりまく状況によってなにが「出現」するのでしょうか。

消防と走馬灯 メモ

 

走馬灯について日々考えている。

死ぬ前に見るとされている映像はどんなコンセプトで、どんなテーマで、どんな切り取り方なのか興味がある。

ある日、育児と仕事の間で困窮していたときだった。今わたしが目の前で見ている光景はおそらく走馬灯でもう一度見るであろう、と思えた。あのときの、あ、これは的な質感。思い返せば、それは「たましい」に触れる問題であった。

たましいとはなんだろう。よくわからない。わからないがそれとしかいえないなにか。

SNS によって画像が次から次へと手元に送られてくる時代。ビジュアルを専門としている私たちはレベルアップのときかもしれない。流行りの脳科学、認知心理学は、効率的かつ有用な人の振る舞いを教えてくれている。よりスマートで賢い動物になれるかもしれない。AI はなんであろう...。これから何かがくるのかもしれない。これらは刺激は強いがしかしたましいについて触れているだろうか。

消防は延焼を防ぐ。拡がりを止め、火を消す。

消防は走馬灯の明かりも消してしまうのだろうか。

それとも最後の明かりが消えゆくのを防いでくれるのだろうか。

走馬灯に消防が介入することによって、走馬灯というとりとめもないなにかが形になってくれる気がしている。

消防が形を残してくれるかもしれない。

 

蓮沼昌宏